SAAB J-35 "DRAKEN"

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SAAB J-35 "DRAKEN"の概要

 J21以来、J29トンネン、J32ランセンと「自国の防衛装備は自国で」の精神の下、スウェーデン制式戦闘機を作り続けてきた SAAB社だが。J21に比べればJ29、J32の両機は高性能ながらもそれほど個性的とは言いがたく、ある意味無難なものであった。 1949年、スウェーデン空軍は冷戦の激化、およびJ29の老朽化から後継となる超音速ジェット迎撃機の要求書を提示し、 それをうけたSAAB社が開発計画を開始した。これがのちにJ35ドラケンと呼ばれることになるスウェーデン制式超音速戦闘機 開発の背景である。

 さて、空軍の提示した要求だが、内容はマッハ1.4〜1.5の最大速度とSTOL(短距離離着陸)性能が主な柱となっている。 前者に関しては将来周辺諸国に配備されることが予想される超音速爆撃機への対策であり、後者は本機の採用で顕著となる スウェーデン独特の用兵思想―くりぬかれた岩山、森林などを格納庫とし、いざとなれば高速道路を 利用し離発着するという―に立脚するものであると考えられる。

 当時のSAAB社の航空技術は前年に初めてジェット戦闘機を送り出すことが出来たという状態である、この要求書は 過酷以外の何ものでもなかったであろう。SAAB社はまずSTOL性能をどのように実現するかの研究に着手した。 結果、ドラケン最大の特徴となるダブルデルタ翼(SAAB社内の呼称はコデルタ)が開発されるのだが、当時SAAB社では 前述のJ32ランセンの開発も同時進行で進んでおり、そこまでの道のりはとても一筋縄ではなかった。

 まず始めに後進翼案が提示されたがこれでは要求にこたえられないということで退けられ、その後検討された 前縁後退角70度デルタ案も操縦安定性に不安があるとし、退けられた。そうして最終的に提示されたのが前縁後退角80度の デルタの外側に前縁後退角60度のデルタを継ぐという、ダブルデルタであったのだが、開発者もそのラディカルな形状に 不安を感じたのであろうか、始めドラケン(竜)と呼ばれ、のちにドラケンが本計画のコードネームとなったことから リルドラケン(小竜)と改称されることになるサーブ210を試作したが、それが予想以上の性能を示したため、 開発者も確信を持ち、ようやくこのダブルデルタ翼が正式採用されることに決定した。

 次は、超音速を実現するエンジンだが、そもそもエンジン開発というのは、小国であるスウェーデンにとって 難儀なものであったであろう。それはJ32ランセンの開発で如実に現れている。 ランセンは、当初自国製のエンジンを開発、搭載する予定で計画が進められたのだが、結局開発につまづき、 イギリスからの輸入でまかなうこととなったのである。ドラケンではもはや独自エンジンの開発はあきらめ、 最初からイギリス、ロールスロイス社のエイボンエンジンの搭載を前提とし、それに独自のノズル、アフターバーナー を搭載することになった。なお、このドラケン開発で用いられた、外国製エンジンに独自の改良を加える方式は、 のちのJA37ビゲン、JAS39グリペンでも踏襲されている。この改良の効果により、ドラケンのエンジンは本家をうわまわる パワーを発揮することに成功し、当初の要求であるマッハ1.4〜1.5を大きく上回るマッハ2.0を実現した。

 このように、SAAB社技術陣が相当苦労したドラケンの開発だが、何とか日の目を見ることが出来、1952年に正式に、 スウェーデン空軍の採用承認が下った。研究開発のスピードはいわゆる航空技術大国であるアメリカ、ソ連に比べると確かに 遅いが、そもそも小国であるスウェーデンがこれほどまでの過酷な条件を満たす航空機の開発に成功するということ自体 驚異的であり、賞賛に値することであろう。さらにその完成品も同時代の戦闘機と比べてもなんら遜色はなく、 むしろスウェーデンの国情を鑑みると、世界で最良の戦闘機であったといえよう。当時は超音速級戦術戦闘機の黎明期であり、 のちの戦闘機に大きな影響を及ぼすことになる、ロシアMiG-21、アメリカF-104、イギリスLIGHTNING、フランスMIRAGEVと いった機体が生まれた時代であるが、実際、後世の戦闘機に最も大きな影響を及ぼしているのはこのドラケンなのである。 例えば現在、欧州ではEF2000やラファールなど、カナード翼+デルタ翼という形状が主流となりつつあるが、このスタイルは SAAB社がドラケンの次に開発する事になる戦闘攻撃機JA37ビゲンが(現在の用途において)始めて採用したものであり、そしてこのビゲンの開発時 に、最も参考にされたのがドラケンなのである。そもそもこのカナード翼+デルタ翼というスタイルはドラケンのダブルデルタを 元に生み出されたのだ。つまり現在の欧州の戦闘機はドラケンの開発なくしてはありえなかったといっても過言ではないだろう。 これだけ見てもドラケンがどれほど画期的で、なおかつ優秀なものであったかがわかるはずだ。

 スウェーデン空軍で始めて採用されたドラケンは、その優秀さを欧州各国から認められ、SAAB社はこの機体の輸出に踏み出すことになる。 まずはじめに、ドイツ空軍に売り込まれたが、F-104に敗れている。その後売り込まれたのは同じ中立国であるスイスであるが、 ここでは、MIRAGEVに敗れている。ドラケンを始めて輸入することになるのはデンマーク空軍で、70年代前半から引渡しが始まり、 数十機が就役した。そしてその後、同じ中立国であるフィンランド、オーストリアなどに輸出されることとなる。(なお、これらの 機体は現在でも現役で使用されている。)結局、ドラケンを輸入するのはデンマーク、フィンランド、オーストリアの3国だけであり、 決して成功とはいえないだろう。売り込みに関してSAAB社は消極的であったから、これはスウェーデンの政策によるものかもしれない。

 しかし、どうしてこれほどの、いろんな意味で「凄い」戦闘機を、当時はたいしたノウハウもなかったスウェーデンが開発 する事に成功したのであろうか。私はこれを「偶然」とは見ない。冷戦により全世界が二分化される中、その政治体制から、 どちらにつくこともできず、いざとなっても誰にも頼ることが出来ないという、いわば八方塞という特殊な状況において、 SAAB社の開発陣、さらにはスウェーデン人全体が抱いた「危機感」というものがこの奇跡とも言うべき所業を 成功に導いたのではないだろうか。そして、この成功によってスウェーデンは自国の安全を守りきるのである。 冷戦期、スウェーデン空軍は領空付近を飛行する軍用機に対し東西の区別なくひたすらスクランブルしたという話は 有名であろう。自国を守るというのは本来こういうことなのであり、また、こういうことであるべきなのである。

ってかドラケンかっちょええええy=ー(゚∀゚)・∵.

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